二十四節気とは
二十四節気は、古代中国で太陽の運行をもとに考案されたもので、太陰太陽暦(旧暦)とともに日本に入ってきました。中国ではB.C.13世紀ごろの殷の時代から太陰太陽暦が使用されていることが研究からわかっていますが、二十四節気はB.C.7世紀ごろにはあったと言われています。
暦の歴史
太陰暦
月の満ち欠けを基準にした暦。やがて12ヶ月で季節が一巡することに気付き、一年という認識が生まれた。太陰暦の1ヶ月は29.5日で、三年で季節が1ヶ月遅れるというズレが生じていた。
太陰太陽暦
月の満ち欠けに、季節をあらわす太陽の動きも加味して作られた暦。太陰暦で問題となっていた「暦と季節のズレ」を調整するために、数年に1度年末に「閏月」を入れるという方法は、世界の広い地域で用いられた。しかし中国だけは、二十四節気という太陽暦と組み合わせた。日本でいう旧暦とは「天保暦」とよばれる太陰太陽暦。
太陽暦
太陽の運行を基準にした暦。グレゴリオ暦。
二十四節気について
二十四節気は古代中国文明の発祥の地でもある黄河流域地方で太陽の運行を基にして作られました。古代中国で使われていた旧暦は一月から三月は春、四月から六月は夏…といった具合に季節が明確に決まっていました。そのため太陽暦を基にした二十四節気は「実際の季節と暦のズレを補うもの」として農業など人々の生活の目安とされていました。
この頃の二十四節気は、物の影が一番長くなる冬至を基準としていました。地上に長い棒を立てて太陽を観測し一年の正確な長さ(一太陽年)を調べました。それを二十四等分して一節気の長さを求めたのです。これは「恒気法」と言われ、現在の太陽の黄経で決める「定気法」と比べて、春分は二日、夏至は一日遅く、秋分は二日早くなっていました。
天保暦(太陰太陽暦)以降から取り入れられている定気法では、春分を基準(黄経0度)とし、地球から太陽の位置が15度移動するごとに一節気が進む方法に改められました。これは地球が太陽の周りを楕円軌道によって公転しているという知見によるものです。以来、定気法では節気の長さは均等ではなくなりました。
現在の二十四節気は、二至二分(冬至、夏至、春分、秋分)を軸とし、その中間点の四立(立春・立夏・立秋・立冬)を合わせた八節の天文暦象を柱として成立しています。
二十四節気の中でも立春が特に重要視されているのは、年の変わり目だからです。つまりその前の節分が季節の境であると共に一年の終わりを示し、立春は新しい年の第一日目という意味を持っているのです。
二十四節気と閏月
二十四節気は、太陰暦に太陽暦の要素を採り入れるための概念であり、暦と季節のズレを調整する「閏月」の挿入に用いられました。
二十四節気は、季節の指標となる「節気」と、月名と決める「中気」から成っています。
太陰暦の1ヶ月(29.5日)と中気と中気の間隔(30.417日)の差によって時々中気を含まない月が現れるので、これを閏月としていました。
二十四節気一覧
春の節気
夏の節気
秋の節気
冬の節気
毎年の正式な日付は「国立天文台」のサイトで見ることができます。
国立天文台「暦要項」